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自分の意見を言わなくなった国民性

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先日、国の教育に関する研究調査結果で、中学生のおよそ25%が教科書レベルの文章を充分に理解できていない状態にあるという報道がされました。

 

 

 

この結果を受けて、このままでは、日本の未来は危険だ、とSNSなどで盛り上がりを見せていました。

 

しかし、この現状は中学生だけに限ったことでしょうか? 実は教科書レベルの文章を理解できていない大人がもっと多いのではないでしょうか?

 

まさにマスコミ報道などでは、切り取られた言葉だけが一人歩きする傾向が非常に高く、テレビで映し出されている前後を観ると、全く別の意図となることも少なくありません。マスコミによる報道操作といえることが多分にあります。

 

また国会における議員たちも、我々国民の代表でありながら、質疑に対してまともに答えようとせず、はぐらかす場面も多く観せつけられてきました。

 

そのようなことの積み重ねで、大人こそが真実を見極める力、真実を読み取る力が足りていないのではないでしょうか? 

 

いつの間にか、教育の目的は、社会に出たときの即戦力育成に変わってしまいました。異議を唱える者は不必要で、社会に対してYESのみを答える者を必要としているのです。果たして教育の目的とはそのようなものだったのでしょうか?

 

 

日本の産業発展に役立つ人物、グローバルな人材を育成して国際競争力を高めるなど、一見聞こえはいいのですが、教育の目的がそこにあるのであれば、まさに人を育てずにAIが存在すればいいだけです。

 

現代の名ばかりの日本の民主主義は、教育を利用して社会の歯車を製造しているだけなのではないでしょうか? 教育の本来の目的とは、客観的に文を読み、課題を見つけ、自分なりの解決作を見いだし、自分の意見を述べることができるような人物を育成することなのではないでしょうか?

 

我が国は、これだけ多くの問題が山積みになっている現状でありながら、選挙の投票率が著しく低い理由は、大人たち自身が自分の意見を述べることを忘れて、歯車であることを良しとしているからでしょう。

 

今、親の立場で子どもの成長を見守っている人も、なぜ子どもに教育を受けさせているのか、見つめ直していただきたいと思います。貴方は、自分のお子さんを、将来単なるYESマンにするためだけに、教育の機会を与えているのですか?

 

偏差値の高い学校ほど、授業での自主性を重んじる傾向があります。ここは悲しい場面、ここは楽しい場面など、与えられる教育より、子どもたち自らが、自分の意見を教え合うような教育の現場を増やしいくことが、日本にとって最も必要なことなのかも知れません。